嫌われる勇気を読んで②承認欲求

嫌われる勇気を読んで①では、自分の競争意識について書いた。

今日は「承認欲求」について書こうと思う。

 

私は今、今までと全く違う業界で仕事をしようと思っている。

そのため、私は何者でもなければ、フリーランスなので名刺もなく、メディア力が全くない状態(お前だれやねん状態)である。

そのため、打合せ等で発言しても「だから何?お前だれ?」的なリアクションも多く、日々自分の説得力のなさを反省する日々だ。

一方で、どこにも所属していない、どこの馬の骨状態、という事実が重なり、

自分の「だれか私をほめてー!みとめてー!」という承認欲求がむくむくと盛り上がってくるのが分かった。

その欲求とつきあうしんどさを感じ、今まで本棚に突っ込んであった旦那の本、「嫌われる勇気」を初めて手に取ってみた。

 

学んだことは以下のふたつ。

 

①承認欲求が強いということは、他者の期待を満たすために生きていることと同義。

ほめてほしい、認めてほしいという思いは、

誰かのメガネで自分のことを評価してほしいということと同じで、

自分自身の判断を、他者にゆだねていることになる。

アドラーはそうではなく、自分の人生は、自分で目標を決めて歩んでいくこと、を大事にしろと言っている。

 

スーパー同意した。

 

他人に褒めてもらって、すごいと思ってもらったところで、どうなんだろう?

優越感を多少感じられるかもしれないけど、

どこまでいってもそれって他人から見た判断にしかならない。

自分は、自分の信じる道を、精いっぱい進んでいるか、を何より大事にしよう。

 

 

②課題の分離

自分のことを他人がどう評価するかは、他人の問題であって、自分のものではない。

また逆もしかりで、他人の問題を私が評価することもあってはならない。

これもうんうん同意しながら読んだ。

 

他人から評価されること自体はあってもいいと思う。

でもそれで自分を否定するのではなく、

自分を成長させるための一意見として、必要なもの・ことだけを取り入れればいいのではないかと思う。

 

他人のフィードバックで、自分が傷ついたりもしていたけど、

この本を読んで思うのは、もしかすると自分に自信がない、自分が信じられるほどの思いがない、ということにつながるのかもしれない。

 

また、これに関連して、

自分と他者の意見が合わないとき。

私はどうしても「自分が正しい」ことを相手に認識させようとしがちだった。

けど、この課題の分離からいくと、

自分と意見を他者のそれが同じではないのは、単なる事実であり、自分の正しさを強調するのではなく、ただその違いを認識すれば良いだけ、のことだと思った。

 

ということで、今まで放置していたこの本は、

今更ながら強烈な学びをもたらしてくれた。

 

「勝ちたい勝ちたい」「ほめられたいほめられたい」という気持ちが湧いて来たらこの本を思い出して、競争意識、承認欲求への付き合い方を、

これからは変えていき、更にゴキゲンな毎日を送ろうと思う。